友人の秋田稲美さんが父親を看取った。在宅看護だった。 ここに書かれているポイントをしっかり抑えた、今日本でできる最高の看取りだったのではないかと思う。
筆者杉浦敏之氏の言う家で看取るということは ① 水分や食べ物をほしがらなくなります ② 眠ることが多くなります ③ すべてを受け入れてあげて下さい ④ 限られた時間と向き合う こういったことにひとつひとつ丁寧に向き合って行くということだ。 秋田さんは、Facebookでその様子を発信し、私はそれを読んでいて心がざわつくとか、そういったことはなく、強いて言えば心が穏やかになった。
死を忌避して、それを覆い隠してしまうことは、合理的ではないと思う。 なぜならば、私達はいつかは死ぬのだから。人生最後の難題イベント(?)にどう向き合うかは、もっとラフに考えてもいいのではないか。
在宅医療、そしてその先にある看取りがうまくいく条件として①在宅医療を支える地域医療制度 ②家族の理解、の2点が上げられるという。秋田さんの経験から、日本の都市部での在宅医療を支える制度はある程度整ってきたのではないかと思う。
この本は、日本の終末期医療、老人介護に対しての問題提起を目的としており、QOLに対しQOD(Quolity of Death)については、 英国エコノミストの『死の質、世界ランキング』日本2010年23位、2015年14位。がん以外緩和医療が受けにくい、精神的ケアを行う心理学の専門家の不足が原因だという。
一番目を引くのが終末期(余命1年程度と診断された人)に対する医療行為で、食べられなくなった患者に無理に食べさせるのは、先進国では「虐待」とされている。(あっ、いろいろあって、日本先進国じゃないかもね💦) 終末期の高齢者が食べなくなるのは、死に向かうとき自然な体の変化で、点滴など行うことで、体に水分を多く入れれば痰が増えて吸引が必要どなり、、浮腫や肺水腫が増え溺死のように肺に水がたまるという。水分がなくなり、乾かすように衰えてゆくというのは、友人の父親の様子と重なり印象的だった。
尊厳死ということも言われているが、筆者はこの法案成立を妨げているのは、患者本人の意志が法的に担保されれば、医師の権限、裁量が少なくなり、やりずらくなるからではということも一因としてあるのではと言っている。
死を忌避するのではなく、忌み嫌うのではなく、死と向かい合い、死が何年先かにあることを時に意識して、今を生きる、政治家も、そろそろ利権の泥沼から足を洗い、人々の幸せを考える方に頭を使ってもいいのではないか←無理か💦(これはあっちの側の課題)
また、筆者は、医療や介護の現場で余暇活動として提供されるものが、カラオケとか塗り絵とか「遊び」「娯楽」の周辺になってしまうことにも疑問を呈している。そんなものが生きがいになるかと。(これはこっちの側の課題)
少なくして学べば、則ち壮にして成すことあり 壮にして学べば、則ち老いて衰えず 老いて学べば、則ち死して朽ちず
佐藤一斎の『言志四録』にある言葉である。人は、年齢関係なく、学び続けることで「朽ちず」、すなわち生きるのではないだろうか。
その学びは自分の興味のおもむくままで、強制されるものでもない。旅であったり、人と人との関係であったり、思考であったり、様々な体験を老いても積み重ねて行くことが、人を豊かにし、最後の瞬間を感謝で終わることができる大切なことだと思った。